感想ではない何か

ボクにとってエロゲとは自分と共にあってくれる何かであり、自分の物語に寄り添ってくれるためのモノでした。したがって、必然的にエロゲをプレイすることが苦しいものでありうることは自明なこととして了解済みのことです。というか苦しみを追体験してそこから抜ける名目でエロゲをプレイするつもりで、自分に縁のある苦しみを求めている感じでした。
ボクにとって「AIR」とは特別な存在でした。あれは自分が10代20代の時に生きてきた物語であり、観鈴と往人はそれぞれ自分の分身でしたし、ヒロインたちは自分が見慣れた存在でした。自分がその時代を生き延びれる地点にたどり着けるまで、自分はゲームという存在とは縁がありませんでした。なぜなら自分はその世界をまさしく自分の存在をかけて生きていたのだから。自分の心への過度の耽溺は生き延びることの足を引っ張る行為であったからです。それらに出会ったのは自分がその轍を抜けるために過去を振り返って、自分の経験を言語化し人に話すことを意識するようになった段階のことです。